童謡「やぎさんゆうびん」の謎

 

 小さい頃から、童謡「やぎさんゆうびん」がわからなかった。
聞いたり歌ったりしながら疑問が湧くのである。
なぜ食べるのか?
なぜ食べられるとわかっていながら送るのか?
内容は?
もう会って話せばいいのでは?

とりあえず、歌詞を復習。


作詞 まどみちお
しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに

もっととっても長い歌かと思っていたら、
なんと歌詞はこれだけで、以後、これが延々と繰り返されるのみである。

最後、なんらかの決着がつくかと思っていたのに!
つかない!
延々と繰り返す!のみ!
衝撃!


でも、歌詞がこれだけ、この繰り返し、ということは、
その世界はその繰り返しで成り立っていて、不便はない、ということである。
であれば、次のようなことであろうか。

 

 ~~~~~

 

ある朝、窓辺でコーヒーを飲んでいると、例の彼が手紙を片手に我が家へ向かって来るのが見えた。声を掛けてもよかったのだが、そこまでの度胸はなかった。高鳴る胸を押さえつつ、僕は相変わらずゆっくりとコーヒーを飲み続ける。その間にこの鼓動がどうにか落ち着けばいい。けれど彼は一歩一歩、こちらへ近づいてくる。窓から眺めているのがバレないように、カーテンをそっと閉めた。それでもわずかな隙間から、彼が近づいてくるのが見える。うちのポストに手紙を入れるのを見届け、その後ろ姿が小さくなっていくのもそっと見守る。今、我が家のポストには、あの白やぎさんが書いた手紙が入っている。そう思うと妙などきどきと興奮が湧く。彼の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、僕はポストへ向かい、その手紙を手に取った。

 

部屋へ戻り、その手紙をしげしげと眺める。大きく、少しやんちゃだが丁寧な文字で「黒やぎさんへ」の文字がある。そっと、その表面を撫でる。白やぎさんが書いたかと思うと胸がじんじんとするし、その上、紙のおいしそうな匂いがする。たまらなくなって口に運んだ。そもそも紙が美味しいし、白やぎさんの想いが僕の体内に取り込まれていく感覚は恍惚を運んでくる。読まなくとも、わかる。本当は知っている。彼だって、僕に興味がないわけじゃない。この町内にただ二匹の山羊だ。白いとか黒いとか、そういう違いはあるけれど、ただ、二匹の山羊だ。

 

彼が引っ越してきた当初は僕だって気に食わなかった。僕のミルクだって毛だって、この町のみんなには重宝されているし、町中の雑草掃除も僕の仕事だ。それを、ひょっこりやってきた白やぎさんに奪われた上、彼の方が愛想がいいから、皆にかわいがられている。僕は僕なりにずっとやってきた仕事がある。誇りだってある。それをぽっと出の白やぎさんに奪われたら、気持ちがいいものではない。

 

悔しいのは、彼だって徹底的にやり尽くして僕の居場所を失くしてしまえばいいのに、と思うのに、決してそうはしないことだ。彼はいつも、半分でやめる。ミルクの行列がまだあったって、彼は半ばでふらりと背を向けどこかへ去っていく。悲しみにくれる行列の前に現れるのは僕で、皆、顔を輝かせてくれる。雑草だってそうだ。彼だって全部を食べ尽くすことも可能だろうに、きっちり半分、残している。

 

それが彼のやり方なのだ。かえって腹が立つ。こんな状態だと、僕もこの町を去るに去れない。僕が去ったら残りの半分はどうなるというのだ。だから僕は、今日もこの町にいる。白やぎさんの気配を感じながら。

 

食べてしまった手紙の、その端切れを眺めながら、僕は呆然とした。うっかり食べてしまったが、なんとするべきか。仕方がないのでペンを執る。先程の手紙の用事を訊くために。

 

でも知っている。たいした内容ではないのだ。あるいはそれか、とてもたいした内容か。僕らはあまり会話しない。顔を合わせると微妙に気まずい。それは僕らが商売敵だというのもあるし、もしかしたら、それ以外の何かがあるからかもしれない。

 

書いた手紙を、白やぎさんの家のポストへ入れに行く。彼はどう思うのだろう。彼も、僕の書いた手紙を目にして胸を締め付けられるようなことがあるのだろうか。

 

わからない。手紙が来ても食べてしまおう。そして知らない顔で再び手紙を出しに行こう。たいしたこと内容ではなくとも、彼には何かしら、僕に伝えたいことがあるのだから。道で会ってもきっと素知らぬ顔をしよう。僕らには馴れ合いはない。いつか彼がたまらなくなって僕に何かを叫ぶとしたら、きっと僕もそれを受け容れたくなっている。

 

 ~~~~~

 

すれ違いBLの歌だった。そうか、そうだったか。
ちなみに雄の山羊も乳を出すこともあるにはあるらしい。
今度から、この歌を聞いたら彼らのしあわせを願うことにしよう。

 

バターミルクチキンの思い出

 

 それはこんなものである。
塩辛い。カリカリとした薄い衣がある。
齧れば、衣の内側にはふっくらとジューシーな柔らかい肉がある。美味い。
さらにその奥には、ものすごく硬いものがある。
肉はそれに抱きつくようにこびりついていて、なかなか離れようとしない。
肉は食べたい。
店からはナイフとフォークが提供されているが、
食べ進めるうちに、示されたマナーを守りがたくなってくる。
禁断の指を使う。
口の中でじゅんわりと肉汁があふれるような、むちむちとした肉を食べたい。
食べる。
今度は甘い。
塩辛いけれど、甘い。同時に。同時に甘い。
後を引く甘さではない。
舌に触れた瞬間「甘い!」と思うような激しさの甘さだけども、
次第に塩辛さに呑まれて甘みは感じなくなってくる。
あの甘みは幻だったのではないか?
そう思ってもう一口、齧ると、再び舌は甘さにびっくりする。
なんだ、やっぱり甘いものだったか。
気のせいではなかった、とガツンとした甘さを確かめているうちに、
自分が現在咀嚼しているものは塩辛いものだ、と認識する。
どういうことだ?
そのまま顎と歯を動かしていると、そこにはもう甘さの面影はなく、
肉汁の豊潤な香りと、パリッとした衣の潔いしょっぱさしか感じなくなる。
再び思う。どういうことだ?
衣を齧る。甘い。確かに甘いのだ。ああ、なのに甘さが消えていく!
混乱しているうちに、先程店員が一緒に置いていった瓶が目に入る。
こちら、メープルビネガーでございます。お味を変えたいときにお使いください。
店員はそう言っていた。
未だに味は把握できていないが、もう残りが少ない。
せっかくなので試してみなければ。
そのメープルビネガーは、少しとろっとしている、赤みがかった焦げ茶の液体だ。
切り分けた肉に、少量かける。そして口に運ぶ。
肉の味が変わった。まず最初に、まろやかな酸味が来る。おそらくビネガーだ。
次に、衣の甘みを感じて、その次は衣の塩気、そうして肉の味。
その肉の味が刻々と変わっていく。
最初は繊細に調理されたやさしい鶏の味だ。きっと優等生だった。丁寧に飼育された。
それが噛みしめるうち、野性味を増す。
舌の奥で、ほのかに血生臭さを感じる。騙されるな。こいつは乱暴者だ。
本当は荒くれ者だが、上質な料理の素材となるように手間暇かけてて育てられるうち、
飼育者の愛を感じて、気性のおとなしい、穏やかな鶏となったのだ。
本当の俺は野蛮な荒くれ者だ!忘れるな!
繊細な調和を脱ぎ捨て、尖った味が主張する。
そんな肉も小さくなり、最後の方で、最初とは違う甘ったるい甘みが来る。
それを飲みこんだ後、口に残るのは、おそらくメープルの甘みである。
メープルは肉汁を刺激して何故か野蛮な味を引き出した。
けれども舌先に残って、デザートのような甘みを残している。
後味は、いい。
焦げ茶のシロップを掛けずともいいのであるが、
掛ければまた別の味が襲ってくる。
どういうことだ、と確かめる隙もなく、あっという間に皿が空になる。

  

そんな、実在する不思議な食べもの、
バターミルクチキン。
ちなみにミルクの味は一切しなかった。 

  

空かないベランダ

 

  ときどき通る道に、いつも洗濯物の干してあるベランダがある。

 

気づいたのは十年前か。そのベランダは当時通っていたスポーツジムから家までの間にあって、汗を吸って重くなった服を携えた夜道、脇の白い一画が目に入った。ただ白いシャツと肌着が数枚、窓二枚ほどの小さなベランダに等間隔で干されていて、それが夜道の街灯で照らされていただけだ。帰ったら洗濯をしなくては、と思いながら通り過ぎる。

 

なんてことはなかった。けれどそれ以来、そこを通るときにはいつもそうやってシャツが神経質そうに干されている。昼間でも。夜でも。大雨の日の記憶はないが、傘をさしているときにも白い一画はあった。

 

今日、久しぶりにそこを通ったら、やはり変わらずに白いシャツと肌着が並んでいた。

 

ベランダの幅から察するに、おそらくはワンルームだとか1DKの部屋。いつもいつもシャツが並んでいる。毎日通るわけではないが、月に一回程度、少なくとも一年に一回は必ず通る。そんな頻度で通る道なのに、そのベランダに洗濯物がないのを見たことがない。

 

 真面目な人なんだな、と思っていた。洗濯をサボらない人なんだな、と。干されるシャツも色や柄の入ったものではなく、全て真っ白なものだったし、その下に着るのであろう肌着もベージュだかグレーだかで、これといった特徴はないシンプルなものだ。いつも、きれいな等間隔で並んでいる。植木算の例題に出てきそうなほど、律儀な等間隔。少しくらい斜めになったり間隔がずれたりしてもおかしくないと思うのだけど、いつもぴっしりと並べられている。シャツの枚数は日によって違って、肌着と三枚ずつのことも、五枚ずつのこともある。それでも絶対に等間隔を保っている。

 

しかしよく考えたら、「常に洗濯物が干してある」というのはちょっとおかしい。その状態で「常に等間隔に干してある」のはもっとおかしい。仮に日曜日に洗濯し、月曜の朝、ベランダから干してあるシャツを取って着て出勤するとする。火曜も、水曜も、ベランダに干してあるシャツを着るとする。だけれどもそれならば片側から空いていくとか、部分的に歯抜けのようにシャツが干されている、という状態があってもいいはずだ。それを見たことは一度もない。干してあるのが五枚でも三枚でも、常に等間隔。ベランダのシャツをそのまま着るのはまあいいとして、そんな人が毎回毎回、律儀にシャツの間隔を直すだろうか?それをする時間や手間を考えると、一度、全部室内に取り込めばいいのでは?だって、雨の日も干しっぱなしだから。洗濯しなおすのかそのまま翌日以降の晴れに委ねるのか分からないが、濡れてしまうよりはラクだと思う。少なくとも私ならそうするし、けれど神経質でもないので等間隔に並べるなんてしない。(むしろ少しずつずらして干した方が、風が通って乾きが早そうだ。)何事か、特別な優先事項や信念やこだわりがあるのだろうか。

 室内にヤバイものがあるから洗濯物で隠しているのだ、という見方はできる。けれどもその人は、十年間そこに住み続けて真っ白なシャツを干し続けているわけで、それならばきっと定職に就いているのだろう。裏稼業なら、あんなに人目に触れやすく、侵入も容易そうな部屋は選ばないと思う。

 

どんな人が住んでいるのかは知らない。もしかしたら街ですれ違ったことも、同じ満員電車の辟易を味わったこともあるかもしれない。きっと街に溶け込んでいる。十年前と変わらない生活スタイルで、相変わらず一人で暮らしているのだろう。(もしかしたら、同居人の服だけ室内干しなのかもしれないが。)そんな誰かが、同じ街で似たように暮らしている私には思いもよらない何かを軸に生活している。その人の場合はベランダにそれが見えただけで、きっと誰しもが他の誰かには信じられない何かを基準に食事を選んだり洗濯をしたり眠ったりしている。そのこだわりは気づくことも気づかれることもあるだろうが、おそらくそんなのはごく一部だ。いわば、周りは変な奴だらけなのだ。みんな平然としているけれど、探せばどこかに何かある。同じような服を着て、同じようなものを食べ、同じような時間に寝て起きて。そう考えたら怖いような楽しいような、不思議な気持ちがした。

 

アレでコレでソレな人々

 

人生経験豊富な人の中には、「あれ」「これ」「それ」を愛してやまない人が多い。

 

A:こないだあそこの奥さんがあれしたらしいのよ、聞いた?
B:聞いた聞いた! あそこのほら、あれのとこでしょ?
 あそこ、ちょっとあれしてるからねえ。
A:そうなのよ。ほんのちょっとなんだけどね。
 でも私らも年だから、ちょっとあれしたら、すーぐあれしちゃうもの。
B:ほんとよう。お互い気を付けなきゃねえ。

この会話の横を通りがかった見知らぬ人には、これはまったくの暗号に聞こえる。
具体的な単語が一切出てこない。しかし当人たちには何のことだかわかっているのだから、これはまさに熟練のスパイ達の会話である。

先程の会話を常人語に直せば、次のようになるだろう。

A:この間、鈴木さんの奥さんが骨折したらしいのよ、聞いた?
B:聞いた聞いた! スーパーの裏の自転車置き場のところでしょう?
 あそこって、ちょっと段差があるからねえ。
A:そうなのよ。(段差自体は)ほんのちょっとなんだけどね。
 でも私らも年だから、ちょっと転んだら、すぐ骨折しちゃうもの。
B:ほんとよう。お互い(転ばないように)気をつけなきゃねえ。

なんてことはない、穏やかな日常会話である。
熟練の者たちには長年の経験で培ってきた技術があるので、これを前述のアレコレで済ませているだけだ。

 

しかし、本当にその内容は穏やかなものなのだろうか?
「年齢のせいで言葉がでてこない」にかこつけた、危ない会話なのではないか?
たとえば先程の会話だって、本当は次のような会話かもしれない。

A:こないだあそこの奥さんがターゲットを暗殺しようとして反撃にあったらしいのよ、聞いた?
B:聞いた聞いた! 最近建ったマンションの裏の、自転車置き場のところでしょう?
 あそこ、ちょっと入っただけなのに人目につかないから絶好の場所なんだけどねえ。
A:そうなのよ。ほんのちょっと道を入っただけで、任務遂行できるいい場所なんだけどね。でも私らも年だから、ちょっと油断したら反撃されて、すぐ自分が負傷しちゃうもの。
B:ほんとよう。お互い反撃されないように気を付けなきゃねえ。

こんな仲間の活動状況報告会が、なんてことはない街のスーパーの一画で行われている可能性があるのだ。通りゆく無関係の人々は「ああ、あのおばさんたち、言葉が出てこないから代名詞で無理矢理会話してるなあ」と哀れな気にもなるかもしれない。本当はプロの始末屋の熟練された情報伝達技術なのに。

 

 そして、「いくらプロでも、あの話法では理解のすれ違いが生まれるのでは?」という疑問も湧く。
彼らの会話はあれこれそれのオンパレードで進んでいくので、話している当人たちにも、相手が自分の意図した理解をしているかどうかは判明しないはずである。


だから、次のような誤解が生まれている可能性だってある。

A:こないだあそこの奥さんがあれしたらしいのよ、聞いた?
 (Aの真意:二日前、山田さんの奥さんが暗殺したターゲットの埋葬処理に無事に成功したらしいのよ。聞いた?)
 (Bの推測:先週、鈴木さんの奥さんが狙撃されかけたらしいのよ、聞いた?)

B:聞いた聞いた! あそこのほら、あれのとこでしょ?
 あそこ、ちょっとあれしてるからねえ。
 (Bの真意:聞いた聞いた! ゴミ捨て場の角のところでしょ?あそこ、公園の木が死角になって、向かいのマンションから狙えるからねえ。)
 (Aの推測:聞いた聞いた! 公園の山の、頂上のところでしょう?あそこ、ちょっと坂がきつくて、お花見の時期以外は人も行かないものねえ。)
 
A:そうなのよ。ほんのちょっとなんだけどね。
 もう私らも年だからちょっとあれしたら、すーぐあれしちゃうもの。
 (Aの真意:そうなのよ。坂がきついったって、ほんのちょっとなんだけどね。もう私らも年だから骨ももろくなってて、埋めてちょっと放置したらすぐに分解されちゃうもの。)
 (Bの推測:そうなのよ。死角ったって、ちょっと気をつけてれば気づけるんだけどね。もう私らも年だから、ちょっと油断したら、すーぐ殺られちゃうもの。)
      
B:ほんとよう。お互い気を付けなきゃねえ。
 (Bの真意:ほんとよう。お互い始末されないように気を点けなきゃねえ。)
 (Aの推測:ほんとよう。お互い始末されないように気をつけなきゃねえ。)


互いに異なる内容について話しているのに、アレで済ませているので誤解には気づかない。
そして、毎日を必死に生きているという状況は両者共通のものであるので、締めくくりの会話は互いに似たようなものとなり、誤解などなかったかのように、自分と仲間の平穏な生活を願ってにこやかに別れるのだ。おそらく日々の報告や連絡は、人目につかない場所や手段で暗黙のうちに行われているのだろうから、その場では内容を深追いして誤解を追求することもない。会話の間、両者の間では感情の共有のみが行われ、結局、仲間意識と相手への親しさが増すという、組織として有利な結果に終わる。

 

こう考えてみると、日本の街中に大量にいる「あれあれおばさん」たちは、実は非常に高度な技術に支えられた、洗練された会話を交わしている可能性に行き当たる。
人に悟られずに不穏な世間話をニコニコと行う彼らは、只者ではない。

 

 

ドーナツ6個入り

渋谷で用事を済ませ、平日夜の帰宅ラッシュのその少し前に電車に乗った。急行は大混雑が予想されていたから各駅停車に乗る。それでも座席はすべてが静かに迅速に埋まり、吊革も半分以上が塞がっている。冬服になった人々はコートで着ぶくれし、人数以上に混雑している感じがする。


特別疲れているわけでも元気なわけでもなかったから、すごく座りたいわけでもどうしても立っていたいわけでもない。とりあえず中ほどに進んで、ドア前の混雑と、駅への停車の度に起こる立ち位置チェンジのわずらわしさから逃れることにした。


電車が駅に着く度に、ぽつりぽつりと座席が空く。一瞬、殺伐としたムードが漂ったあと、無言の駆け引きの勝者がすみやかに空いた座席へと吸い込まれていき、すぐにまた元の光景に戻る。輪廻のように繰り返し繰り返し、各駅ごとにわずかばかり個体と場所とを入れ換えて、あとは同じことの繰り返しだ。

私がその空席への参入権を得たのは十数駅すぎた頃で、混雑が増してきて隣の立ち人との距離を詰めることを要求されはじめた車内の雰囲気と、電車の心地よい揺れからくる眠気で、ちょうど座って脱力したいと思い始めていたときだった。両隣が男性で、肩幅のある私には座席は狭いかもしれなかった。しかし片方は若い男、もう片方はクリスピークリームドーナツの6個入りの箱を膝に乗せている、家族に優しそうな中年男性だ。加齢臭のするおじさんや香水のきついおばさんに挟まれるよりはずっといい。すると思念が通じたのか、私は難なく空席に座ることができた。


冬服なのもあり、やはり、肩はくっついてしまった。けれど両者ともに無害そうなので問題なしとしよう。私は静かに目を閉じて、隣のおじさんの膝の上のドーナツが、明るい家で奥さんと子供たちと共に食べられるところを想像した。きっと子供は中学生くらい。反抗期だけれど食べ物にはつられてしまう。6個のドーナツは、娘が二つ、息子が二つ食べるだろうか。


なんとなくほんわかした気持ちになり、自分もドーナツを食べたくなった。今食べるなら、どんなドーナツだろう?シンプルなプレーンドーナツは、レンジであたためてかぶりつくと、口のなかでふわっと溶けていくのがたまらない。チョコレートのかかったものも、甘さの種類が二倍になって、豪華な気分になる。チョコレートがカリッとするのも素敵だ。季節限定の鮮やかな色のついたドーナツも、クリスマス気分を盛り上げてくれそうな気がする。

と、ここまで空想をしてからふっと恐ろしくなった。肩をくっつけている隣のおじさんが、あたたかな家庭を持っているだなんて本当はわからないのだ。愛人のいる妻、グレた娘に引きこもりの息子。このおじさんは冷えきった家庭のつらさをどうにか乗りきるために、週に一度ドーナツを買い、暗い自室に一人こもって、6個をむしゃむしゃと味わいもせず涙と共に飲み込むのかもしれない。またあるいは、自宅で自分の両親と妻の両親、合計四人の介護をしているかもしれぬ。自分を忘れた母と、体の自由が利かなくなった父に相対する日々は苦しい。日中は妻に頼っているので妻の悲愴も深い。唯一、ドーナツを与えている間だけ訪れる平穏。夫婦が家庭でほほえみを浮かべていられる時間は数分で淡く消えてなくなってしまう。


そもそも中身がドーナツかどうかわからない。実はおじさんは大食いで、ドーナツの箱を弁当箱にしているのかもしれない。おじさんは実は腕の立つ暗殺者で中にピストルと銃弾が入っているかもしれないし、拷問請負人で、まだ血の滴る人の指と、頭皮ごと剥いできた髪の毛が入っているかもしれない。一分後に、突如隣の私にナイフを突きつけ、新鮮な指先を要求してくるかもしれない……。


己の先入観にぞっとして、電車の揺れにあわせて、ひっそりと体を心持ち反対側に寄せたのだった。