ドーナツ6個入り

渋谷で用事を済ませ、平日夜の帰宅ラッシュのその少し前に電車に乗った。急行は大混雑が予想されていたから各駅停車に乗る。それでも座席はすべてが静かに迅速に埋まり、吊革も半分以上が塞がっている。冬服になった人々はコートで着ぶくれし、人数以上に混雑している感じがする。


特別疲れているわけでも元気なわけでもなかったから、すごく座りたいわけでもどうしても立っていたいわけでもない。とりあえず中ほどに進んで、ドア前の混雑と、駅への停車の度に起こる立ち位置チェンジのわずらわしさから逃れることにした。


電車が駅に着く度に、ぽつりぽつりと座席が空く。一瞬、殺伐としたムードが漂ったあと、無言の駆け引きの勝者がすみやかに空いた座席へと吸い込まれていき、すぐにまた元の光景に戻る。輪廻のように繰り返し繰り返し、各駅ごとにわずかばかり個体と場所とを入れ換えて、あとは同じことの繰り返しだ。

私がその空席への参入権を得たのは十数駅すぎた頃で、混雑が増してきて隣の立ち人との距離を詰めることを要求されはじめた車内の雰囲気と、電車の心地よい揺れからくる眠気で、ちょうど座って脱力したいと思い始めていたときだった。両隣が男性で、肩幅のある私には座席は狭いかもしれなかった。しかし片方は若い男、もう片方はクリスピークリームドーナツの6個入りの箱を膝に乗せている、家族に優しそうな中年男性だ。加齢臭のするおじさんや香水のきついおばさんに挟まれるよりはずっといい。すると思念が通じたのか、私は難なく空席に座ることができた。


冬服なのもあり、やはり、肩はくっついてしまった。けれど両者ともに無害そうなので問題なしとしよう。私は静かに目を閉じて、隣のおじさんの膝の上のドーナツが、明るい家で奥さんと子供たちと共に食べられるところを想像した。きっと子供は中学生くらい。反抗期だけれど食べ物にはつられてしまう。6個のドーナツは、娘が二つ、息子が二つ食べるだろうか。


なんとなくほんわかした気持ちになり、自分もドーナツを食べたくなった。今食べるなら、どんなドーナツだろう?シンプルなプレーンドーナツは、レンジであたためてかぶりつくと、口のなかでふわっと溶けていくのがたまらない。チョコレートのかかったものも、甘さの種類が二倍になって、豪華な気分になる。チョコレートがカリッとするのも素敵だ。季節限定の鮮やかな色のついたドーナツも、クリスマス気分を盛り上げてくれそうな気がする。

と、ここまで空想をしてからふっと恐ろしくなった。肩をくっつけている隣のおじさんが、あたたかな家庭を持っているだなんて本当はわからないのだ。愛人のいる妻、グレた娘に引きこもりの息子。このおじさんは冷えきった家庭のつらさをどうにか乗りきるために、週に一度ドーナツを買い、暗い自室に一人こもって、6個をむしゃむしゃと味わいもせず涙と共に飲み込むのかもしれない。またあるいは、自宅で自分の両親と妻の両親、合計四人の介護をしているかもしれぬ。自分を忘れた母と、体の自由が利かなくなった父に相対する日々は苦しい。日中は妻に頼っているので妻の悲愴も深い。唯一、ドーナツを与えている間だけ訪れる平穏。夫婦が家庭でほほえみを浮かべていられる時間は数分で淡く消えてなくなってしまう。


そもそも中身がドーナツかどうかわからない。実はおじさんは大食いで、ドーナツの箱を弁当箱にしているのかもしれない。おじさんは実は腕の立つ暗殺者で中にピストルと銃弾が入っているかもしれないし、拷問請負人で、まだ血の滴る人の指と、頭皮ごと剥いできた髪の毛が入っているかもしれない。一分後に、突如隣の私にナイフを突きつけ、新鮮な指先を要求してくるかもしれない……。


己の先入観にぞっとして、電車の揺れにあわせて、ひっそりと体を心持ち反対側に寄せたのだった。