空かないベランダ

 

  ときどき通る道に、いつも洗濯物の干してあるベランダがある。

 

気づいたのは十年前か。そのベランダは当時通っていたスポーツジムから家までの間にあって、汗を吸って重くなった服を携えた夜道、脇の白い一画が目に入った。ただ白いシャツと肌着が数枚、窓二枚ほどの小さなベランダに等間隔で干されていて、それが夜道の街灯で照らされていただけだ。帰ったら洗濯をしなくては、と思いながら通り過ぎる。

 

なんてことはなかった。けれどそれ以来、そこを通るときにはいつもそうやってシャツが神経質そうに干されている。昼間でも。夜でも。大雨の日の記憶はないが、傘をさしているときにも白い一画はあった。

 

今日、久しぶりにそこを通ったら、やはり変わらずに白いシャツと肌着が並んでいた。

 

ベランダの幅から察するに、おそらくはワンルームだとか1DKの部屋。いつもいつもシャツが並んでいる。毎日通るわけではないが、月に一回程度、少なくとも一年に一回は必ず通る。そんな頻度で通る道なのに、そのベランダに洗濯物がないのを見たことがない。

 

 真面目な人なんだな、と思っていた。洗濯をサボらない人なんだな、と。干されるシャツも色や柄の入ったものではなく、全て真っ白なものだったし、その下に着るのであろう肌着もベージュだかグレーだかで、これといった特徴はないシンプルなものだ。いつも、きれいな等間隔で並んでいる。植木算の例題に出てきそうなほど、律儀な等間隔。少しくらい斜めになったり間隔がずれたりしてもおかしくないと思うのだけど、いつもぴっしりと並べられている。シャツの枚数は日によって違って、肌着と三枚ずつのことも、五枚ずつのこともある。それでも絶対に等間隔を保っている。

 

しかしよく考えたら、「常に洗濯物が干してある」というのはちょっとおかしい。その状態で「常に等間隔に干してある」のはもっとおかしい。仮に日曜日に洗濯し、月曜の朝、ベランダから干してあるシャツを取って着て出勤するとする。火曜も、水曜も、ベランダに干してあるシャツを着るとする。だけれどもそれならば片側から空いていくとか、部分的に歯抜けのようにシャツが干されている、という状態があってもいいはずだ。それを見たことは一度もない。干してあるのが五枚でも三枚でも、常に等間隔。ベランダのシャツをそのまま着るのはまあいいとして、そんな人が毎回毎回、律儀にシャツの間隔を直すだろうか?それをする時間や手間を考えると、一度、全部室内に取り込めばいいのでは?だって、雨の日も干しっぱなしだから。洗濯しなおすのかそのまま翌日以降の晴れに委ねるのか分からないが、濡れてしまうよりはラクだと思う。少なくとも私ならそうするし、けれど神経質でもないので等間隔に並べるなんてしない。(むしろ少しずつずらして干した方が、風が通って乾きが早そうだ。)何事か、特別な優先事項や信念やこだわりがあるのだろうか。

 室内にヤバイものがあるから洗濯物で隠しているのだ、という見方はできる。けれどもその人は、十年間そこに住み続けて真っ白なシャツを干し続けているわけで、それならばきっと定職に就いているのだろう。裏稼業なら、あんなに人目に触れやすく、侵入も容易そうな部屋は選ばないと思う。

 

どんな人が住んでいるのかは知らない。もしかしたら街ですれ違ったことも、同じ満員電車の辟易を味わったこともあるかもしれない。きっと街に溶け込んでいる。十年前と変わらない生活スタイルで、相変わらず一人で暮らしているのだろう。(もしかしたら、同居人の服だけ室内干しなのかもしれないが。)そんな誰かが、同じ街で似たように暮らしている私には思いもよらない何かを軸に生活している。その人の場合はベランダにそれが見えただけで、きっと誰しもが他の誰かには信じられない何かを基準に食事を選んだり洗濯をしたり眠ったりしている。そのこだわりは気づくことも気づかれることもあるだろうが、おそらくそんなのはごく一部だ。いわば、周りは変な奴だらけなのだ。みんな平然としているけれど、探せばどこかに何かある。同じような服を着て、同じようなものを食べ、同じような時間に寝て起きて。そう考えたら怖いような楽しいような、不思議な気持ちがした。